少なくとも私は合いませんでした。
ただ、テーマとか作風とかそういうこと以前の段階で、ですが。
修学旅行での事故で、あるクラスの生徒達が事故に遭い他界した。
二十六名のクラスメイトの中で生き残ったのは、たった二人。
当日、旅行を欠席したことで難を逃れた少年、灰吹清隆。
事故に遭いながらただ一人だけ生き残った少女、鬼塚輝美。
そして、事故に遭いながら生き残った少女には不思議な力が与えられていた。
事故で亡くなった二十四名の亡くなったときの最後の想いと、その能力。
少女は、その最後の想いを一つ一つ叶えていこうとしていく。「生き残った」罪悪感を感じていた清隆は、それを知り自分も手伝わせて欲しい、と申し出る。
……というストーリーです。
人によって好みが厳しいテーマだと思うのですが、個人的には嫌いじゃありません。
むしろ小説じゃないと描きにくいテーマなんじゃないかと思います。
テーマを象徴するように、オープニングも印象的に始まります。
この物語には、二十六人の高校生の男女が登場する。
当然のようにこの物語は、二十六人の死と青春を描くものになる。
そしてこの物語は、必ずハッピーエンドを迎える。
なぜなら、この物語は始まりの時点が最も悲惨で、最も間違った状況だからだ。
彼らのうち二十四人は、物語の始まりと同時に死亡している。
(プロローグ 11p)
やはり、好みはある書き出しですが、私は嫌いじゃありません。
ええ、この時点ではそう思ってました。
しかし、本編に入って、どんどん読む側のテンション(つまり私のテンション)が下がってきます。
(中略)
(鬼塚輝美が住むマンションの一室。
まだきちんと整理されていない、大量の寄せ集めの物資が氾濫している部屋。統一性のない衣服、多様なスポーツ用品、数々のアクセサリ、複数の楽器、新旧様々なゲーム機などなど――異常なまでに多彩で、とても一人の人間が暮らしている部屋には見えない。
ベッドの上であぐらを掻きギターのチューニングをしていた輝美は、さっきから見え透いた綺麗事ばかりを並べているニュース番組にうんざりして、卓上のリモコンに手を伸ばし――)
『あの事故から一週間が過ぎ、本日は学校主催の合同葬が行われます。学生達の遺体はすでに現地で荼毘に付されており、密葬はそれぞれのご家庭で……』
(灰吹家の朝の食卓。ダイニングはテーブルと椅子が置かれた洋風の調度だが、並ぶ料理は豆腐の味噌汁に鮭の切り身と白いご飯の典型的日本食だった。
心配そうな表情を浮かべ、かける言葉を見つけられない両親を横に、灰吹清隆は自分がどんな表情を浮かべるべきなのかすら解らず、感情の見えないぼんやりした顔をしている。
母の料理は美味しかったはずなのに、今朝はいくら噛んでも味がしない。この味気ない朝食の責任を押しつけるように、清隆は箸を置いてリモコンに手を伸ばし――)
『事故現場の悲惨な状況から、乗客の生存は絶望視されていましたが、捜索によって奇跡的に生存していた一人の女子生徒が発見されました。現在の彼女は健康状態を取り戻しており、本日の合同葬にも参加する予定だと……』
(――二人はほぼ同時に、テレビの電源を消した)
(第一章 きみがやろうとしている事は 18p~19p)
と、こんな描写が、それはもう、そこかしこに存在します。
その場にいない人間の描写から、過去の回想、果ては亡くなったクラスメイトの最後の想いまで。
視点の移動は行わない、というのはいわば小説のセオリーの一つですが、文中にこんな風に視点移動を無意味に挟みまくるのは、流通に載っている本ではなかなかお目にかかれません。
もちろん、小説の作法なんて、あってないようなものですから、絶対視点移動するな、と言いはしません。(偉い人に怒られそうですが)
でも、セオリーを破る以上、それは、少なくとも効果的に使われなければ意味はないわけです。なぜセオリーが存在するのかといえば、それが小説という様式の中で効果的だから、な訳ですから。
視点移動を極力しない方がいい理由は、読者が話の筋を把握しにくかったり、今誰に焦点が当たっているのかわからなかったり書かれて居るのが誰の心情なのか解らない……小説としての体を成さなくなる基点になりがちだからです。
特にこういったほとんど行や段落単位で視点を切り替えるというのは問題外でしょう。
もちろんそうすることで、効果があることもあるでしょうから、絶対守るべきだ、とは言いませんが、少なくともこの作品ではそうはなっていないように私は見えます。
そうしなければ書けないことを書きたいのであれば解りますが、たとえば上に抜き出した、テレビを同時に消す、なんて描写をわざわざわかりにくい視点の移動を活用して書く必要は、個人的にはどこにもないように思います。
しかも、場面に登場しない人物の説明が入ったり、過去回想がこういった説明で入ったり……。場面に登場している人物が知らない事が書かれて居ることもざらです。
はては、亡くなったクラスメイトの最後の想いが、こういった説明で入ったり。
いやいや、それがメインテーマなんですよね?
生き残った事で罪悪感を抱いた少年少女が、仲間たちの最後の想いを叶えていって、ハッピーエンドを迎える、っていう話なんでしょう?
それを、こういう挿入で、しかも描写ですらない説明で済ますとか……じゃあ、なんでこのテーマを小説で書いたのか、わけがわからない。
クラスメイトは亡くなってるんでしょう?
その最後の想いは、本来であれば誰にも解らない。残された人たちはその思いを知りたいと願っても推測することしかできない。
だけど、奇跡の一つとして少女は二十四名のクラスメイト達の最後の想いを受け継いでいる。なぜそれを生かして「最後の想い」を描いてかないのか。
「生き残った罪悪感」というのは、亡くなった人たちの言葉がもう聞けないからこそ生じるファクターが多いはずなのに、メタ的に「誰それは亡くなるときこう思った」とか書かれてたら、それはもう物語じゃなくて説明文なのでは?
拍子抜けだし、重いテーマを扱っているはずなのにちっとも登場人物の心情に添えないし、何より頻繁に出てくるこの説明が、手抜きか、さもなくば「作者は描写は出来ません」と言っているようにしか見えなくなってきます。
もちろん、あまりに回数が多いので、あえて狙ってやったのだと思います。
素で書いたとしたら、編集が指摘しないわけないですし。
ただ、少なくとも私にはまったくの裏目に出ているようにしか見えませんでした。
きちんと書かれていれば面白そうなのに、と個人的には思うだけにとても残念でした。
目次
プロローグ
第一章 『きみがやろうとしている事は』
第二章 『ソレトナク』
第三章 『Tell me why』
エピローグ